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上杉鷹山公の精神に触れるー終 [上杉鷹山]

 これまで、上杉鷹山公の改革の精神の一端に触れてまいりましたが、米沢藩の改革は、民に犠牲を強いる改革ではなく、支配階級自らの改革に重点があったように思われます。 真の改革とは、弱者である下流、社会の下部構造を改革することではなく、強者である上流、社会の上部構造(支配層)を改革することではないでしょうか? それは、改革する者自ら率先垂範して身を切ることから始まるのです。

 小泉構造改革は、弱者の一般国民に犠牲を強いるだけで、支配層は肥え太るものでありました。 さらに、外国資本の強奪を許すという売国性さえ帯びた改革であったのです。小泉改革は、とても改革と呼べる代物ではない、偽物であったと言えるように思います。

 小泉純一郎氏が首相在任時は、「自己責任論」が強調されました。「自己責任」は、助け合いの精神と相容れないものであります。小泉時代以降、互助の精神の希薄な孤立した社会への傾斜が顕著になったように思います。小泉改革は、社会のセーフティネットを著しく破壊するものでありました。

 天明の大飢饉の時、上杉鷹山公は、「自助」「互助」「扶助」の精神で、ひとりの餓死者も出さずにしのぎきったと伝えられています。助け合い、分かち合いの精神は、困難なときほど真価を発揮するのだと思います。

 未曾有の経済危機にある日本は、「互助」「扶助」の精神が希薄では、未来に明るい展望が開けるようには思われません。これを正すには、日本の為政者が、「為政者は民の父母である」という鷹山公の無私の精神に立ち返ることから始めなければならないように思われます。


(以下郷土のやまがた「上杉鷹山の功績」より引用)

〇民の父母

 受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母

 鷹山が17歳で第9代米沢藩主となったときの決意を込めた歌である。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすことであるという鷹山の自覚は、徹底したものであった。後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、次の3カ条を贈った。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となる。

 ・ 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
 ・ 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
 ・ 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

 藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。しかし、それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。すなわち、

 ・ 自ら助ける、すなわち「自助」
 ・ 近隣社会が互いに助け合う、「互助」
 ・ 藩政府が手を伸ばす、「扶助」

〇天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助

 藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となった。
 翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落ち込んだ。
 鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。

 ・ 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
 ・ 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
 ・ 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。

 全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。

 近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされているが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。

 江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかった、という。米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として3度も表彰を受けている。

〇アジアのアルカデヤ(桃源郷)

 イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残している。

 南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、抑子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ザクロを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。・・・美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。

 イザベラ・バードは、この土地がわずか100年前には、住民が困窮のあまり夜逃げをするような所であったことを知っていたかどうか。この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の17歳から55年にもおよぶ改革が火をつけた武士・領民たちの自助・互助努力だったのである。

 美しく豊かなのは土地だけではない。それを作り出した人々の精神も豊かで美しい。病人や障害者は近隣で面倒を見、老人を敬い、飢饉では富裕なものが競って、貧しい者を助ける。鷹山の自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも美しく豊かな共同体を作り出したのである。

(引用終わり) 

   郷土のやまがた 「上杉鷹山の功績」

 都合により、拙ブログはしばらくの間休止とさせていただきます。
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