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「脱テレビ」のすすめ [時事問題]

森田実氏のホームページに「脱テレビ」について書かれた文章がありました。

 「森田実の言わねばならぬ【624】」の中で、清水幾太郎先生が1958年に書いたテレビに関する次の文章が引用されていました。

 《個人の自由な使用に委ねられている余暇がなかったら、革命というものは容易に起こり得なかったであろう。革命というのが少し大袈裟に聞こえるとしたら、人間の成長とでも言い換えよう。とにかく、余暇において初めて可能になる苦悶、反省、勉強がテレビジョンによって不可能になり、人間が昼間は現実によって吸収され続け、夜はリアリティを持って迫る映像にノック・アウトされ続けていたら、与えられた現実を越えて行くという人間の態度はなかなか生まれるチャンスがないであろう。過去の革命の細根は、恐らく、疲れ果てた人間が余暇を現実超越的に利用したことのうちにあったと思う。テレビジョンは革命の細根が育つ条件を許さないであろう。》

 森田実氏は、「テレビが人間の苦悶、反省、勉強を不可能にしたことは、この50年のテレビの歴史が証明している。清水先生は50年前にこのことを見通ししていたのである。」述べておられます。


 「脱テレビのすすめ」

 今日のテレビの状況を見通していた清水幾太郎先生の洞察力には頭が下がります。 テレビを見続けることによって、国民は一方的に情報を与えられるだけの受け身の立場に立たされてしまうのです。 批判精神のような思考能力が、いつの間にか減退してしまうのは明らかであります。

 さらに、危険だという思うのは、現在のテレビは、意識的に国民の思考の力を奪い、いわば集団催眠を意図した仕掛けがなされているのではないかという疑念がぬぐえないことがあります。 それは、一定のリズムを刻む音声が常に流れています。そして、ナレーターが視聴者の先回りをして、懇切丁寧な解説を加えるという仕掛けに現れています。 流すニュースなどの情報は、民法各局すべて同じものが流れる割合が高くなっているように思われます。テレビメディアの裏側に影の司令塔が存在しているのではないかと疑われるのです。

 権力を構成する者たちが、テレビメディアを使って国民の思考力を削ぎ一般国民を家畜のような従順な存在におとしめようと意図して情報操作をしているとすれば、一般国民にとってテレビは凶器のような存在となります。 我々は、テレビメディアに疑いの目を向け、できるだけ距離を置くべき時期にきているのではないでしょうか? 私などは、テレビはほとんど見ませんが、慣れれば支障はないように思われます。

 今、自民党の総裁選挙に五人の候補が立候補して、24日の投票日まで華々しくテレビメディアジャックを繰り広げています。前回衆議院選挙で、テレビメディアは「小泉劇場」を演出し、自民党にお化けのような議席を獲得するのに多大な貢献をいたしました。 今回もまたテレビメディアは、同じような「劇場型選挙」にして、国民の目をくらまそうとするのでしょうか? 今回の衆議員選挙でも政府与党に加担する報道をして、選挙結果に影響を与えるようなことがあったら、テレビメディアは、反国民的存在であること、国民にとっては凶器であることを証明するものとなるでしょう。

 それは、テレビ放送会社は、格差社会を内包し、格差社会の頂点に立つ者であること。 権力側の一角を担っていることの本性を現すものでもあるということなのです。 我々は脱テレビを進め、テレビメディアの思考操作、情報操作に影響されないようにしていくべきではないでしょうか。


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