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上杉鷹山公の精神に触れる-1 [上杉鷹山]

 政権維持に汲々としている自公与党政治家の人たちを眺めていると、絶望的な気分に陥ってくるのではないでしょうか? こうした心境のときには、昔の本物の政治家の、精神の一端に触れてみることで、少しは救われた気分になれるのではないでしょうか?

 そこで、江戸時代に、破滅的な財政状況にあった米沢藩を立て直した、名君上杉鷹山公の生涯を振り返りながら、その精神に触れてみたいと思います。私には、鷹山公に関しての詳しい知識がありませんので、 「郷土のやまがた」さんのホームページにある「上杉鷹山の生涯」から引用させていただくことといたします。長文のため何回かに分けて掲載していきます。

(以下引用開始)


  『上杉鷹山 の生涯』


上杉鷹山(うえすぎようざん)は、1751年7月20日、日向高鍋藩の江戸藩邸で、藩主秋月種美(あきづきたねよし)の次男として生まれた。歴史の教科書にも載らなかったこの偉大なる方は、数ある大名のなかで名君中の名君といわれた。養子として上杉家を継ぎ、若くして藩政改革に取り組み、藩の窮乏を救うことに成功したからである。

  彼の母は、筑前秋月城主の娘で春姫。春姫の母は、米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘、豊姫、瑞耀院(ずいよういん)で、鷹山にとって上杉家は、祖母が現米沢藩主上杉重定と従姉弟にあたるという、遠い親戚関係にあった。

 江戸時代の各藩、すなわち大名家は、それぞれが小国家で、その経営は各藩独自の方針に基づいて堆進されていた。よって経営者たる藩主の資質・力量によって、その経営内容は大きく左右された。もっとも、どの藩も貧しく徳川幕府でさえ、財政危機の連続であった。財政の基盤は米を中心とした農業生産物であり、その年の天侯に左右されることが多く、各藩の経済はきわめて不安定であった。江戸時代を通じて、幕府以下どの大名家も、慢性的な不況にあえいでいたが、固定化された体制では、殆ど変わりようがなく、悪化した経営を建て直すことはまず不可能に近かった。

 そうした中で、上杉鷹山は、行政改革に成功し財政危機を乗り越えて経営改革を成し遂げたのである。

 鷹山は幼名を松三郎といい、直松とも呼ばれた。幼少時より頭がよいと評判の子供であったが、江戸時代の体制下にあっては、どんなに優秀であっても、次男が長男をさしおいて家を継ぐということはなかった。

 ところが、9歳の時、鷹山は祖母にあたる瑞耀院(ずいよういん)の推薦によって、出羽米沢藩十五万石上杉重定の養子に内定したのである。それは、重定の正室に男子がなかったからであった。鷹山は、重定の正室が生んだ女子、幸姫(ゆきひめ)と将来結婚することを前提に、宝暦10年、正式に上杉家の養子となった。日向高鍋藩二万七千石の部屋住(へやずみ)の身が、十五万石の大名家を継ぐ立場となったのである。まさに逆玉!であるがこれは、単に彼に幸運があったからではなく、優秀な子であったという評判があったからこそだったのである。

 ところが、鷹山はこの幸姫との間に、夫婦としての関係を生涯持ちえなかったのである。幸姫は、心身ともに発育が遅れており、10歳にも満たぬ幼女同然だった。しかし鷹山はこの幸姫を、いつくしみ続けるのである。鷹山が、幸姫を相手に、ひな飾りや玩具遊びをする姿を見て、お付きの女中たちは涙を流したといわれている。

 鷹山は養子入りにあたり、秋月家の老臣三好重道から、懇切な訓戒書を与えられた。それには、忠孝・学問・武芸をはじめ、養家の作法に絶対違犯することがないよう生涯努力し、決して恥辱を残さぬよう、詳しく述べたものであった。鷹山は生涯これを秘蔵し、その体現に努力を怠らなかった。

 1766年、数え年16歳になった鷹山は、将軍徳川家治の前で元服し、将軍の一字をもらって治憲(はるのり)と改名した。鷹山と号するのは、ずっと後に養父の重定が死去してからである。そして翌、明和4年、重定が隠退して、鷹山は上杉家の家督を継ぎ、第9代米沢藩主となった。この時少年鷹山は17歳。厳しい状況で迎えた藩主の座であった。というのも、米沢藩は未曾有といっていいほど、藩財政が極端に窮乏し、家臣も領民も貧困にあえいでいたからである。更に悪いことは重なり、何度かの大凶作が追い打ちをかけていた。

 藩主になった直後の鷹山の決意を、二つの誓詞が物語っている。一つは春日社に納めたもので、自分自身を律したもので、文学・武術を怠らぬこと、民の父母である心構えを第一にすること、質素倹約を忘れぬこと、言行がととのわなかったり賞罰に不正があったりしないようにすること等を神前に誓ったものである。もう一つは上杉家歴代が尊崇した鏡守社白子神社に奉納した、「連年国家が衰微し人々が困窮しているが、大倹によって必ず中興したい、その決意を怠るようなことがあれば神罰を蒙ってもよい」という意の誓文である。鷹山はこれらの誓詞を密かに奉納したので、領民は誰もこのことを知らなかった。誓詞が発見されて公表されたのは、春日社のものが1865年、白子神社のものは1891年になってからのことである。

 明和4年9月、鷹山は大倹執行の命令を発する。短期間に大幅な収入増が見込めぬ以上、できるだけ出費を切りつめなければならないからであった。しかし、低禄の家臣や領民の貧困をよそに、永年特権の上にあぐらをかいてきた藩上層部は、当然若き新藩主の方針に不満たらたらであった。しかし鷹山は、自らが率先して倹約することで、大倹を断行した。

 藩主の生活費のすべてである江戸における年間仕切料は、これまで千五百両であったが、これを二百九両余まで圧縮した。実に七分の一という大幅節減である。日常の食事は一汁一菜、衣服は綿衣とし、五十人もいた奥女中は九人に減らした。

 明和6年10月、鷹山は藩主となって初めて米沢に入部した。藩主初のお国入りである。このとき鷹山は、側近が止めるのもきかず、米沢のかなり手前から馬に乗り、風雪の中を雄々しく入城したといわれている。

 また、11月に行われた恒例の初入部の祝儀の宴では、大倹の際であるということで従来のご馳走料理を廃し、赤飯と酒だけで催した。その席で鷹山は、最下級の足軽格の軽輩にまで親しく言葉をかけたといわれている。

 こうした若き新藩主の旧習を破る行動は、上級家臣や老臣たちの反発を招いた。彼らは、ことあるごとに鷹山の新政策に横槍を入れることになる。家臣の須田などは、大倹令に従わず、乗馬の際には縮緬羽織を着用するというように、平然と鷹山への当て付けを行ったといわれている。 しかし一方で、新藩主の革新の気風を大いに歓迎し、旧弊を打破して新しい米沢藩をつくろうという側近も少なくなかったのである。鷹山は竹俣当綱(まさつな)や莅戸善政(のぞきよしまさ)らの改革派の強力なブレーンを得て、藩政改革を推し進めていくのである。
(続く…)
 
   郷土のやまがた 「上杉鷹山の生涯」
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