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上杉鷹山公の精神に触れるー終 [上杉鷹山]

 これまで、上杉鷹山公の改革の精神の一端に触れてまいりましたが、米沢藩の改革は、民に犠牲を強いる改革ではなく、支配階級自らの改革に重点があったように思われます。 真の改革とは、弱者である下流、社会の下部構造を改革することではなく、強者である上流、社会の上部構造(支配層)を改革することではないでしょうか? それは、改革する者自ら率先垂範して身を切ることから始まるのです。

 小泉構造改革は、弱者の一般国民に犠牲を強いるだけで、支配層は肥え太るものでありました。 さらに、外国資本の強奪を許すという売国性さえ帯びた改革であったのです。小泉改革は、とても改革と呼べる代物ではない、偽物であったと言えるように思います。

 小泉純一郎氏が首相在任時は、「自己責任論」が強調されました。「自己責任」は、助け合いの精神と相容れないものであります。小泉時代以降、互助の精神の希薄な孤立した社会への傾斜が顕著になったように思います。小泉改革は、社会のセーフティネットを著しく破壊するものでありました。

 天明の大飢饉の時、上杉鷹山公は、「自助」「互助」「扶助」の精神で、ひとりの餓死者も出さずにしのぎきったと伝えられています。助け合い、分かち合いの精神は、困難なときほど真価を発揮するのだと思います。

 未曾有の経済危機にある日本は、「互助」「扶助」の精神が希薄では、未来に明るい展望が開けるようには思われません。これを正すには、日本の為政者が、「為政者は民の父母である」という鷹山公の無私の精神に立ち返ることから始めなければならないように思われます。


(以下郷土のやまがた「上杉鷹山の功績」より引用)

〇民の父母

 受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母

 鷹山が17歳で第9代米沢藩主となったときの決意を込めた歌である。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすことであるという鷹山の自覚は、徹底したものであった。後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、次の3カ条を贈った。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となる。

 ・ 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
 ・ 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
 ・ 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

 藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。しかし、それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。すなわち、

 ・ 自ら助ける、すなわち「自助」
 ・ 近隣社会が互いに助け合う、「互助」
 ・ 藩政府が手を伸ばす、「扶助」

〇天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助

 藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となった。
 翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落ち込んだ。
 鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。

 ・ 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
 ・ 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
 ・ 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。

 全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。

 近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされているが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。

 江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかった、という。米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として3度も表彰を受けている。

〇アジアのアルカデヤ(桃源郷)

 イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残している。

 南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、抑子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ザクロを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。・・・美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。

 イザベラ・バードは、この土地がわずか100年前には、住民が困窮のあまり夜逃げをするような所であったことを知っていたかどうか。この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の17歳から55年にもおよぶ改革が火をつけた武士・領民たちの自助・互助努力だったのである。

 美しく豊かなのは土地だけではない。それを作り出した人々の精神も豊かで美しい。病人や障害者は近隣で面倒を見、老人を敬い、飢饉では富裕なものが競って、貧しい者を助ける。鷹山の自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも美しく豊かな共同体を作り出したのである。

(引用終わり) 

   郷土のやまがた 「上杉鷹山の功績」

 都合により、拙ブログはしばらくの間休止とさせていただきます。
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オバマ大統領での日米関係を予測する [国際ニュース]


 1月20日大統領就任式が行われ、オバマ氏が、第44代大統領に就任しました。ホワイトハウスには200万人の人々が集まって祝賀ムード一色になったようです。

 民主党のオバマ大統領になって、日米関係はどうなるのでしょうか? 気になるところですが、日本政府は米国の「ハート」を中国に奪われはしないかと、不安があるようです。毎日新聞の記者の目というコラムに、笠原敏彦という記者が『日本は「オバマ・ショック」に備えよ』と題して、オバマ大統領での日米関係を予測しています。

 笠原記者は、『大胆に予測するなら、その懸念は的中し、日本外交は緩やかな「オバマ・ショック」に見舞われ、歴史的には日米同盟の分水嶺(ぶんすいれい)として振り返られることだろう』と言います。そして、米国の知人の話を紹介するのです。

『オバマ外交を占う上で示唆的な話を紹介したい。アジア外交担当として次期政権入りが確実視される米国の知人から聞いた話だ。

 民主党の大統領候補指名争いが続いていた昨年3月、オバマ陣営とヒラリー・クリントン(次期国務長官)陣営の外交スタッフ約40人が南部フロリダ州のホテルに招集された。いずれも政権発足時には外交を動かす政府高官候補たち。目的は、民主党政権誕生に備えて「外交政策の一本化」を図ることだった。

 数日間の合宿論議でテーマとなったのは中国、ロシア、インドへの外交政策だった。この3カ国に焦点が絞られたのは「国際秩序の行方に影響を及ぼす国々」だからで、日本は「中国政策を論議する文脈でしか語られなかった」という』

 特に中国は、潜在的な国力からして確実にアメリカと並ぶ「極」へと成長を続けていて、アメリカは重視せざるを得ないようです。日本は、軽視はされなくとも、後回しにされることになるのではないでしょうか?

 笠原記者は、ワシントン担当時代の日米関係の印象を率直に語ってくれています。

 いわく『昨春までワシントンで米外交を担当し、外国首脳らがホワイトハウスをひっきりなしに訪れるのを見ながら、こんな日米の相関図を思い描くようになった。

 アメリカは超モテ男で、世界中から熱い視線を集める。この血の気が多いモテ男の周りには、思わせぶりな美女からしつこいストーカータイプまで、手を焼く面々が多い。ガールフレンド(同盟国)も数多いが、日本はさしずめ、ひたすら尽くす献身的タイプだ。たまに耳元で「日本は大事」とささやいておけば、3歩下がってついてくる

 笑うなかれ。米国が昨年10月、北朝鮮のテロ支援国家指定を解除した経緯を思い起こしてほしい。日本が「指定解除しないで」と懇願し続け、ブッシュ大統領も「拉致問題は忘れない」と繰り返していたのに、あっけなく指定は解除された。それでも日本は懲りもせず「日米関係の強化」を呪文のように唱え続けているのが現実ではないか』

 オバマ大統領はモテモテとなって、日本政府はジェラシーを募らせることになるのでしょうか? もうアメリカに依存するだけの日米関係では、バカにされるだけなのだと思います。日本政府は外交の多元化を図って、そのうえで日米関係を再構築しなければいけないのです。自立した外交ということだと思います。

 麻生首相は、こうした大胆な外交を推進するためにも、選挙をして国民の審判を受け、政権の正当性を確保する必要があります。政権の正当性を疑われては、相手国から馬鹿にされるだけでしょうから?

  笠原記者は最後に、『日本は第二次大戦後、日米同盟のお陰で世界第2の経済大国になり得た。しかし、その過剰な依存のせいで経済力を政治・外交力に転化できなかった。米国の一極構造が溶解し始める中で、日米同盟に依存した世界観で外交を続けるなら、日本の国際的な地位は劇的に低下するだろう』と警告していますが、その通りだと思います。

  毎日新聞 「記者の目:日本は「オバマ・ショック」に備えよ=笠原敏彦」の記事

党大会での麻生首相と小沢代表の発言を比較する [ニュース]

 東京新聞は、18日に同時に開かれた自民党と民主党の党大会を、麻生首相と小沢代表の訴えを中心に比較した記事を載せています。

 麻生首相の訴えは、「経済危機への対応策を示せるのは自民党しかあり得ない。私が先頭に立って全力を挙げて戦っていく」という自負と、「早期に大胆な政策を打ち出したと、自分なりに思っている」という自画自賛でありました。

 一方、小沢民主党代表は、いつものように淡々とした口調であいさつし、「国民は家族だ」と言い、「国民」や「国民生活」という言葉を何回も使いました。目標の一つに『国民の、国民による、国民のための政治』の実現を掲げました。そして、「政権は国民自身が選ぶもので、政府は国民自身がつくるものだ」と指摘して、国民の自覚を促したのです。

  大会の運営の仕方でも両党は違いが顕著でありました。自民党は。『照明が落とされた会場に、サーチライトで照らされ生演奏をバックに登場した首相。好んで使う「日本の底力」をテーマにした映像、音楽や照明を駆使し、例年通りの「元気の出る党大会」(細田博之幹事長)を“演出”できたかもしれない』というように派手な大会になったようです。

 民主党は、派手な演出は一切なく、運営費用を節約して質素な党大会となりました。

 麻生首相の訴えは、自負と自画自賛だけでありました。麻生首相は、「経済危機への対応策を示せるのは自民党しかあり得ない」と言いまして、「自民党しかあり得ない」を連発していますが、政党を評価するのは国民であるはずです。こういう言い回しは、国民の意志を尊重しようという謙虚さがないからでてくるセリフなのだと思います。

 小沢代表は、「国民は家族」と言って、「国民」や「国民生活」という言葉を繰り返し使ったようです。そして、『国民の、国民による、国民のための政治』の実現を目標に掲げて、国民の目線を意識しているように思われます。

 上杉鷹山公は、『為政者は、民の父母のような存在でなければならない』として、自分というものを一切捨てて政治に当たられました。麻生首相と小沢代表のどちらが為政者としてふさわしいかは、一目瞭然ではないでしょうか? 自己中心の麻生首相と国民の目線の小沢代表では相当の開きがあると言えるのだと思います。指導者としての資質の面では、戦う前に勝負ありということではないでしょうか?


党大会 麻生自民 景気対策を自画自賛 小沢民主 国民生活の再建約束(東京新聞)

 政治決戦の衆院選をにらみ、自民、民主両党が18日にそれぞれ開いた党大会は、好対照の趣向だった。麻生太郎首相(自民党総裁)と、小沢一郎民主党代表の訴えを中心に比較してみた。
 首相は演説の結びで「選挙に向けて、景気回復に向けて、不況克服に向けて、先頭に立って戦う覚悟を申し上げる」と力を込めた。各世論調査で内閣支持率は二割を切り、党内には“麻生離れ”が充満する。そんな不安を振り払うように、選挙の顔は自分だとの自負がのぞいた。

 十分の予定だった演説は二十分を超えた。首相が強調したのは「危機はチャンスになる」という楽観主義と、就任以来四カ月の実績だった。

 首相は事業規模で七十五兆円の経済対策や改正新テロ対策特別措置法の成立などを列挙しながら、「早期に大胆な政策を打ち出したと、自分なりに思っている」と自画自賛してみせた。

 しかし、首相が繰り出した政策が、国民から評価を得ていないのは世論調査からも明らか。党大会は新たなメッセージを打ち出す好機でもあったが、これもなかった。

 党内からは「残念ながら、明るい日本に向けた展望を示すまで至っていない」(中堅の閣僚経験者)、「政治が大きく変わるメッセージをもっと強く出してほしかった」(若手議員)との感想も漏れた。

 照明が落とされた会場に、サーチライトで照らされ生演奏をバックに登場した首相。好んで使う「日本の底力」をテーマにした映像、音楽や照明を駆使し、例年通りの「元気の出る党大会」(細田博之幹事長)を“演出”できたかもしれない。

 だが、「立党以来の危機」と叫ぶ苦境を打開する具体策は、党の運動方針からも見当たらない。
 「党利党略による国会戦術」といった民主党批判や、「立党以来、わが国の発展に寄与してきた」といった過去の実績アピールが目につくのは、首相の演説と同じだった。 (清水俊介)

 「自公政権が一日長く続けば、それだけ国民生活の被害は大きくなる。私たちの手で、この国の仕組みを根本的に変え、『新しい生活』、新しい日本をつくり始める時だ」

 いつものように淡々とした口調であいさつした小沢氏は、「国民は家族だ」との表現を使ったり、「国民」や「国民生活」を連呼した。

 本来ならば、衆院選に向けた決起集会になるはずだが、新人候補の出席は免除。政権交代の現実味が増して浮足立つ党内を抑えるかのように、派手な演出は一切なく、運営費用を節約して質素な党大会となった。

 小沢氏のあいさつに込められたのも、目の前に並ぶ国会議員らに奮起を促すというよりも、国民に直接向けられたメッセージが中心。その多くは国民への「約束」だ。

 小沢氏が目標の一つに掲げたのは「『国民の、国民による、国民のための政治』の実現」

 税金の無駄遣いを徹底的になくし、浮かせた財源を国民生活の立て直しに集中的に使うと主張した。
 国民に不評の定額給付金の代替策として、太陽光発電用のパネル普及をはじめとした「環境」と、小中学校や病院の耐震化など「安全・安心」の二分野での「ニューディール」政策を打ち出した。具体的な対案を示すことで、国民への説得力を増そうとしたからだ。

 その上で「民主党が政権を担っても、国民との約束を守らなかった場合、その次の総選挙で政権の座から降ろしてください」と言い切った。

 一方、小沢氏は国民への「注文」も忘れなかった。

 「政権は国民自身が選ぶもので、政府は国民自身がつくるものだ」と指摘。民主党中心の政権を実現するため、国民の「最終判断」に期待を寄せた。 (西川裕二)

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麻生政権で天下り規制後退の懸念 [ニュース]

 官僚の天下りを規制する、昨年末に施行された改正公務員法は、天下りの斡旋を官民人材交流センターに一元化し、渡りを含む省庁斡旋を禁止した。ただし、経過措置として、3年間は、首相の委任を受けた再就職等監視委員会の承認を条件に、各省庁の斡旋を認めることとしました。

 しかし、官民人材交流センター構想に反対する民主党が、監視委員会の同意人事を認めず、監視委が立ち上げられなくなった。政府は苦肉の策で、退職管理に関する政令で、監視委が発足するまでの間は、首相が権限の行使することとしたが、そのなかに、「専門的な知識や経験を持つ国家公務員に限って再就職斡旋を認める」という「渡り」容認の規定をもぐり込ませたのだ。

 東京新聞は、『首相は八日の衆院予算委員会で、渡りのあっせんについて「原則廃止の方向だ」と強調した。それが一転、九日の予算委では、企業などから「国際機関での勤務経験が極めて豊富」などの条件で引き合いがあった場合は、例外的に承認することも「あり得る」との認識を示した。

 野党は、例外規定の削除を要求。首相は公布したばかりの政令の改正に踏み切れず、逆に官僚の振り付け通り「必要不可欠の場合」の具体例を説明。かえって改革に後ろ向きな印象を与えてしまった』と報じています。

 霞ヶ関官僚の神輿に乗っている麻生首相は、公務員の天下り規制に熱心ではないようです。公務員改革に独自のポリシーがあれば、官僚の振り付け通りに答弁するなどということはなかったはずです。

 日本経済新聞は社説で、『「渡り」容認の規定は、霞が関がこの機に乗じて盛り込ませたものだ。自民党の公務員制度改革委は重要な政令を党にはからずに閣議決定した手続きも問題視している。「渡り」の規定の是非を政府内で真剣に検討した形跡がないのは深刻な事態である。首相の求心力が低下し、霞が関にあなどられているようにみえる。』と政府の対応を批判しています。

 麻生政権は、霞ヶ関官僚に依存した自民党旧来の政権であるということが露呈していると言えるのだと思います。麻生首相は、霞ヶ関擁護ありきであり、官僚の無駄遣いを改めることはできないでしょうし、やるつもりもないのだと思います。

 麻生政権は、言わばタライの穴をそのままにして、水を増やそう(消費税増)としているようなものですから、、国民の支持を得ることはとてもできないと思われますが、麻生首相は頑迷のようです。

 日本経済新聞の社説は、『次期衆院選で民主党は天下りの禁止を掲げる方針で、公務員制度改革は大きな争点になる。首相は2011年度からの消費税の増税を訴える考えだが、その前提として行財政改革の徹底は不可欠だ。公務員制度改革への強い決意を示す必要がある。』と結んでおります。

  日本経済新聞社説 「麻生首相は公務員改革を後退させるな」
  東京新聞 「首相一転腰砕け 公務員改革『渡り』例外容認」の記事


党大会:自民、民主が開催 衆院選にらみ対決姿勢鮮明に(毎日新聞

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自民党大会で万歳三唱の音頭をとる麻生太郎首相(中央)
=東京都内のホテルで2009年1月18日午前11時58分


 自民党と民主党は18日、東京都内のホテルで定期党大会をそれぞれ開き、次期衆院選をにらみ対決姿勢を鮮明にした。麻生太郎首相(党総裁)は「経済危機への対応策を示せるのは自民党しかあり得ない。私が先頭に立って全力を挙げて戦っていく」と強調。これに対し、小沢一郎代表は「経済危機の今こそ大転換を成し遂げる好機だ。国の総予算を組み替え、税金の無駄遣いをなくし、国民生活を立て直す」と政権交代に強い意欲を示した。

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渡辺善美氏の行動は、自民党内の抗争の延長だ [時事問題]

 渡辺善美氏の離党前後の一連の行動は、政権交代を阻止する意図があるのではないかと、植草さんが何回となく警告を発せられているところであります。

 東京新聞が伝えるところによりますと、14日午後、自民党を離党した渡辺喜美元行政改革担当相は、民放のテレビ番組に電話出演し、今後の政治活動に関して「民主党と組むことは全くない」と強調した。

 一方で「自民にも民主にも同じ志を持つ人はいる。政界再編が一番の理想だ」とも述べ、与野党を問わず、幅広い結集を探る意向を示したと伝えています。

 また、15日午後、渡辺喜美元行政改革担当相は、民放テレビ番組で自らの自民党離党について「私が投げた一石で、自民党は相当壊れた。効果は絶大だった」と自画自賛した。

 2011年度からの消費税率引き上げ方針に、自民党内で異論が続出していることに触れ「もし私の行動が鎮圧されていたら、こういう議論も鎮圧されていたかもしれない」との見方を示した。

 さらに「天下りを容認し公務員天国を温存したままで消費税を上げるなど、ふざけるなと言いたい」と述べ、行政改革の優先を訴えた。

 今後について「近々、運動を始める。地方主権や脱官僚のためのタウンミーティングを各地でやる。国会議員が何人集まるかはまったく問題ではない」と述べたとも伝えられた。

 16日には、、脱官僚主義や地域主権などを柱にした「国民運動」の主体となる新グループを江田憲司衆院議員(無所属)や有識者(屋山太郎)らと結成すると発表しました。
(以上東京新聞参照)

 これら渡辺善美氏の一連の行動で、彼が何をしようとしているのか本音が透けて見えているように思われます。

 まず初めに注目しなけれならない発言は、「民主党と組むことは全くない」と断言している点です。渡辺氏が、政権交代を目指しているわけではないことは明らかといえるのではないでしょうか。このことは、「自民にも民主にも同じ志を持つ人はいる。政界再編が一番の理想だ」と述べていることからも分かります。

 渡辺氏の目指しているところは、政界再編によって、自らの路線である小泉構造改革の継続を狙っているように思われます。麻生政権はなし崩し的に小泉改革からの転換を図っていますから、渡辺氏の行動は、自民党内部の路線対立という党内抗争の結果なのだと思います。小泉一派は、(麻生内閣から完全にパージされてしまったものですから)追い詰められて党の外からと連動して運動を起こそうとしているのです。

 以下の渡辺氏の発言は、自民党内の抗争である事を示しているのではないでしょうか?「私が投げた一石で、自民党は相当壊れた。効果は絶大だった」と自画自賛。2011年度からの消費税率引き上げ方針に、自民党内で異論が続出していることに触れ「もし私の行動が鎮圧されていたら、こういう議論も鎮圧されていたかもしれない」。「天下りを容認し公務員天国を温存したままで消費税を上げるなど、ふざけるなと言いたい」。

 小泉郵政選挙の時には、民営化に賛成する構造改革派と反対するものを抵抗勢力にして、両者の争いをマスコミが煽り立て、民主党など野党は蚊帳の外になってしまい、惨敗しました。この渡辺氏の行動も、自民党内の争いを煽りたて、民主党など野党を蚊帳の外にしてしまおうという意図があると見たほうがよいように思います。

 麻生首相の霞ヶ関官僚による支配という旧来の路線と、渡辺氏などの(植草さんのいわれる)「悪徳のペンタゴン(五角形)」の利権を擁護する従米、売国路線の対立というのが本質なのだと思います。渡辺氏の国民運動なるものは、小泉改革継続を実現するために国民を籠絡するものと言わねばりません。決して、国民のためになるものではないのです。

 新たな政策グループについても、「脱藩官僚の会」の江田憲司衆院議員や超保守の屋山太郎氏が加わっていることからわかるように、国民に軸足を置くよりも、現在の権力構造を維持していこうと言う偽装CHANGEの狙いがあると疑ったほうがよいのだと思います。

 大事なことは、自公政権を下野させて、小泉偽装構造改革の責任を明確にすることであります。それには、政権交代しか選択の余地はありません。渡辺義美氏らの偽装国民運動に惑わされることがあってはならないのだと思います。 

   植草一秀の『知られざる真実』 「「リフォーム詐欺」防止の国民運動を発足させよう」
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上杉鷹山公の精神に触れるー4 [上杉鷹山]

(引用の続き開始)

五什組合

 鷹山の愛民の政治は以上にとどまらず、次々と多方面に展開された。その一つが「五什組合」の制度である。

 これは農民相互の扶助組織であり、近隣五軒を五人組として相互に助け合い、村全体が共同体として苦楽をともにするものであった。鷹山は「五什組合」について次のように定めた。

1.五人組は常にむつまじく交りて苦楽をともにすること、家族の如くなるべし。

1.十人組は時々親しく出入りして家事を聞くこと、親類の如くなるべし。

1.一村は互いに助け合い、互いに救い合いたのもしきこと、朋友の如くなるべし。

1.組合村は患難にあって助け、隣村よしみ甲斐あるべし。

 そして、老いて子なき者、幼にして父母なき者、夫婦のいずれかを失った者、病傷者で生活できない者、死者を出しても葬式を出せない貧しい者、火災にあった者等々、全ての苦しむ者に対し、五人組、十人組、一村が相互扶助することを定めたのであった。これまた鷹山の「民の父母」たる愛情から発した農村政策であり、決して農民への支配と統制を目的とする制度ではなかった。

 それ故に内村鑑三『代表的日本人』の中でこの五什組合のことを「多分の官僚主義は以上のどこにも存しない。それのみならず我々はかつて鷹山の米沢領以外、地球の他のいかなる部分に於ても、これに類したものの公布され、それの実行に移されたるを見たことなしと言明する」と述べているのである。

福祉政策の実践

 ほかにも鷹山は、老人や病人、妊婦などの弱者を重視する福祉政策の充実をはかり、それを実現させた。

 医者が余りにも少ない時代で、病気になっても医者にかかる事ができない者が多く、鷹山は藩内各地に官選の医師をおき、彼らに宅地を与えるとともに優遇した。これによりどれほど多くの人が助けられたかは言うまでもない。

 江戸時代にあってこの当時、悲しくも堕胎いわゆる間引は日常化していた。その要因は、結局子供を生んでも育てられない生活の貧しさにあった。鷹山は熟慮と協議を重ねた結果、種々やりくりし六千両の育児資金をつくり出し、子供を育てられない窮民にこれを与えることにした。こうして前後約三十年の努力を傾注した結果、遂に米沢藩において堕胎間引の根絶に成功するのである。実に容易ならざる事業であったが、鷹山の「誠と愛と知」を傾けた尽力がこれを成就せしめたのである。

 さらに当時、生活苦のため働けなくなった老人は、「口減らし」のためしばしば野山に捨てられた。鷹山はこの忌まわしき悪習の絶滅のため次なる方策を講じた。それは九十歳以上のものはなくなるまで食べてゆける今でいう年金を与え、七十歳以上のものは村で責任をもっていたわり世話することを決めた。それのみならず鷹山は、老人を大切にいたわる孝子を褒賞するとともに、自ら敬老を実践するのである。

 こうして鷹山自ら誠意の限りをつくした敬老養老の実践は、堕胎とともにこの悪習をも根絶せしめることに成功したのである。

 鷹山の半世紀にわたる粒々辛苦の尽力は遂に米沢藩を変貌せしめ、この地上の歴史の中に最も価値ある理想の国をつくり上げることに成功したのである。

 米沢藩再建は数十年を要した長く困難な道程であった。誰もが再建を不可能とした中にあって、鷹山は不退転の覚悟のもとに死力を尽くした。この努力の根底にあったものこそ、「民の父母」たる為政者としての深い自覚と責任であり、人々への限りない愛情と真心であった。鷹山の行った政治こそは、真に仁政の極致といってよかった。

 我々はここに為政者のあるべきすがたを見るのである。政治と政治家にとって最も大事なことを、五十有余年の不撓不屈の実践によって指し示した上杉鷹山こそは、わが国の生んだ古今不世出の哲人政治家であった。鷹山がかくの如き政治を達成し得たのは彼が何より人間として立派であったからにほかならず、鷹山のこの神のごとき人格は唯々生涯にわたる正しき人間の道を践まんとする、たゆまざる学問と修養によって生み出されたものである。

 文政五年、鷹山が七十二歳でなくなった時、藩内あげてその父母を失うがごとく、その悲嘆は言語に絶した。埋葬の当日、数万の人々があるいは老人を伴い、あるいは幼児をたずさえ、沿道に平伏してひつぎを拝み、欷歔(ききょ:すすり泣く)嗚咽、号泣の声は山野に満ちた。

(以上引用終わり)

 五什組合というのは、今の言葉で言えば、生活セーフティネットと言えるものだと思います。お互いが助け合う、互助の精神が徹底しています。全てを自己責任に帰するなどと対極の世界、ホームレスなどと無縁の世界であります。当時の米沢藩は、愛に満ちた理想郷であったのだと思います。

 これは夢、幻ではなく現実にあったことです。現代人も、米沢藩を手本にして、理想郷をめざなくてはいけないのではないかと思うのです。

   郷土のやまがた 「上杉鷹山の生涯」
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上杉鷹山公の精神に触れるー3 [上杉鷹山]

(以下引用の続き開始)

農民への愛情

 農民の生活をよくする為には、日頃農民に接する藩役人のあり方を改めることが根本であった。というのもこれら役人の主な任務は農民から確実に年貢を取り立てることであり、彼らは農民に対し生殺与奪の権を握り、従来とかく百姓泣かせの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう:きびしいとりたて)を行うものが少なくなかったからである。

 そこで鷹山はこの農民を支配する役人の制度を改め、これまでの世襲的な代官制度を撤廃し、すぐれた人物を選びこれにあてることにした。そして鷹山はこれら役人の心構えについての文章を与え、彼らを懇々と教え論した。その文章を要約すると、「役人は母の赤子に対する心をもって民にのぞめ。この真心、誠のあるところ愛を生じ、愛は知を生ずる」ということである。この言葉は、鷹山の肺肝よりほとばしり出たものである。鷹山の心にあるもの、それはひたすら民を思い民を愛する至情であった。鷹山のこの民に対する姿勢こそ、今日においても少しも変わることのない政治の要諦でなければならない。

農民の教師-郷村教導出役

 鷹山は藩内十二の地方に、前述の基本精神のもとに、「郷村教導出役」という役人をおいた。鷹山が彼らに与えた任務は次の通りである。

1.天道を敬うことを教える事

1.父母への孝行を教える事

1.家内睦まじく親類親しむことを教える事

1.頼りなき者をいたわって渡世させる事

1.民の害を除き民の潤益をとり行う事

1.上に立ち百姓を取扱う諸役人の邪正に注意する事

1.往来の病人をいたわる事

 郷村教導出役 の任務は一つに農民の生活を守ることであり、いま一つは農民に人の道を教え人倫を正しく践むましめることであった。

 鷹山の抜擢をうけた十二人はいずれも衆にすぐれた人物で、彼らはよく鷹山の意を体し競い合って職務に精励した。鷹山はしばしばこの十二人を呼び出しては、直接彼らと語り合い農政の改善に全力を尽くしたのである。こうして米沢藩農政は着々とその成果をあげ、農民の生活は向上していった。かくまでして農政に心を傾け尽くした君主は、ほとんど稀であったのである。

 この鷹山の農政を見て人々は何を感ずるであろうか。鷹山は政治と道徳あるいは教化をわけていないのである。鷹山は政治と道徳を不可分と信じたのだ。それ故に農民の生活安定並びに向上のみならず、彼らに人間としての道を行わしめることに最も意を注いだのである。鷹山は役人たちに、為政者たる役割と教師たる役割を二つながら備わることを求めたのであった。

 ここに我々は本当の政治と政治家のあり方を見ることができる。政治はまず人々の生活を守ることが大前提であり、これができなければ失格である。鷹山はこのことにあらゆる叡知と努力を傾け遂にそれを達成した。しかし人々の生活を守るだけが政治の全てではない。人間としてよりよく立派に生きることこそ真に大切なことである。本当の政治はやはりこの課題を無視して通れない。鷹山はこの政治の最終目標を忘れなかったのである。このことを考えてみても鷹山が為政者としていかにすぐれていたかがわかるのである。
(続く…)

 「為政者は、民の父母であるという心構えを第一とせよ」、春日神社に奉納した誓詞であります。鷹山公の心にあったものは、ひたすら民を思い、民を愛する至情でありました。そこには自分というものがありません。鷹山公の政治を一言で表現すれば、「愛の政治」であったと言えるように思います。

 また、鷹山公は、代官の世襲制度を廃止して、新たに登用した役人に心構えを諭しています
 「役人は母の赤子に対する心をもって民にのぞめ。この真心、誠のあるところ愛を生じ、愛は知を生ずる」。官僚の人たちには、この言葉の意味するところをかみしめていただきたいものだと思います。

   郷土のやまがた 「上杉鷹山の生涯」
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上杉鷹山公の精神に触れるー2 [上杉鷹山]

(以下引用の続き開始)

 1773年、須田をはじめとする譜代の老臣7名が、鷹山に対して反旗をひるがえした。これまで鷹山を中心に改革派が推し進めてきた政策をすべて否定するという訴えを起こしたのである。「七家訴状」とよばれる四十五力条からなる訴状には、鷹山に対する批判や、 鷹山側近に対する不満、新政策への非難がつづられていた。

 鷹山は襲封以来はじめて、重臣たちの反乱にあうという重大な局面に立たされたのである。しかし、鷹山は果断であった。審査したのち、訴状の出された三日後には7人の重臣すべてを、切腹あるいは閉門、減知するなど処断した。こののち、改革政策は、活発な展開を見ることとなる。家中総出で労役に従事し、生産向上の実を上げるのである。

 安永元年から鷹山は「籍田の礼」をはじめた。中国の故事にならったもので、奉行以下諸役人全員が参列し、鷹山がまず鍬を打ち以下全員が鍬打ちをつづけて、最後に神酒を頂戴するという儀式であった。この家臣の労働奉仕を振起する行事は、鷹山在国の年には必ず行われました。翌安永2年から3年にかけて、新田の開発、河川の改修、橋の掛け替え、籾倉の建設など家中あげての労役奉仕による大規模な開発事業が行われた。武士たちが農民と共に賊役とされた労働に従事するなど、これまでは考えられないことであった。

 鷹山はまた、郷村をよく巡覧し、農業生産の実を上げた代表者に褒賞を与えた。そして、 代官の世襲を廃止し、優秀な人材を代官に登用したのである。

 また、鷹山は産業開発にも力を入れた。これまで米沢藩の伝統的産業は、青苧(あおそ)漆、蝋であり、藩財政の重要な部分を占めていた。しかしこれらの国産物はいずれも衰退していたのである。

 そこで安永4年、竹俣当綱によって発表された漆、桑、楮(こうぞ)各百万本の植樹計画は、財源の回復と山間部の農村復興を目指したものでした。縮み織りの染料となる藍の栽培をはじめたのも安永年間のことである。同時に藩営の縮織業を開始した。

 また鷹山が学問を重視したことはよく知られている。彼が興譲館という学校を築いたのは、安永5年のこと。彼の師匠である細井平洲を招き、身分の上下、年に関わらずみんなを招いた。

 幸姫は天明2年(1782年)30歳まで生きて亡くなった。その間、鷹山は江戸屋敷には一人の側室も置かなかった。鷹山の側室は、国元の米沢に置いたお豊の方ただ一人であった。このお豊の方は、上杉綱憲の第六子式部勝延の娘で、重定の従兄弟にあたる。鷹山より10歳年上であったが、お豊の方は教養も高く、鷹山をよく理解した賢婦人であった。彼女は鷹山の男子を二人もうけたが、いずれも早逝している。しかし鷹山との間はうまくいき、鷹山を支えつづけて81歳まで生きた。

 天明5年(1785年)鷹山は35歳の若さで隠退した。跡を継いだのは重定の世子治広。養父重定はいまだ健在であり、その実子に藩主の座を譲るというのは、いわば既定の路線であり、鷹山の忠孝心の表われでもあった。隠退にあたって鷹山が治広に与えた有名な「伝国之辞」は、鷹山の政治理念を象徴する 名言として知られている。

 
一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物には無之候。 

一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候。

一、国家人民の為に立たる君にして、君の為に立たる国家人民には無之候。

 
 隠居した鷹山は城内三の丸に餐霞館(さんかかん)と名づけた隠殿を建て、そこで暮らした。生活はこれまで以上に質素を旨とし、仕切料も重定の三分の一以下。しかしまったく隠退してしまったわけではなく、10代藩主治広をバックアップし、さらに11代斉定をも後見して、米沢藩の経営を実質リードし続けるのである。文政5年1822年2月、病に倒れた鷹山は、一カ月の病床ののち、3月12日の朝、 静かに息を引き取った。享年72歳である。
(続く…)

 鷹山公は伝国の辞において、為政者は国、民に尽くさなければならないのであって、我欲、私心があってはならないと諭しているように思います。公より私を優先している今の与党政治家の人たちには、耳の痛い言葉ではないでしょうか!

   郷土のやまがた 「上杉鷹山の生涯」
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上杉鷹山公の精神に触れる-1 [上杉鷹山]

 政権維持に汲々としている自公与党政治家の人たちを眺めていると、絶望的な気分に陥ってくるのではないでしょうか? こうした心境のときには、昔の本物の政治家の、精神の一端に触れてみることで、少しは救われた気分になれるのではないでしょうか?

 そこで、江戸時代に、破滅的な財政状況にあった米沢藩を立て直した、名君上杉鷹山公の生涯を振り返りながら、その精神に触れてみたいと思います。私には、鷹山公に関しての詳しい知識がありませんので、 「郷土のやまがた」さんのホームページにある「上杉鷹山の生涯」から引用させていただくことといたします。長文のため何回かに分けて掲載していきます。

(以下引用開始)


  『上杉鷹山 の生涯』


上杉鷹山(うえすぎようざん)は、1751年7月20日、日向高鍋藩の江戸藩邸で、藩主秋月種美(あきづきたねよし)の次男として生まれた。歴史の教科書にも載らなかったこの偉大なる方は、数ある大名のなかで名君中の名君といわれた。養子として上杉家を継ぎ、若くして藩政改革に取り組み、藩の窮乏を救うことに成功したからである。

  彼の母は、筑前秋月城主の娘で春姫。春姫の母は、米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘、豊姫、瑞耀院(ずいよういん)で、鷹山にとって上杉家は、祖母が現米沢藩主上杉重定と従姉弟にあたるという、遠い親戚関係にあった。

 江戸時代の各藩、すなわち大名家は、それぞれが小国家で、その経営は各藩独自の方針に基づいて堆進されていた。よって経営者たる藩主の資質・力量によって、その経営内容は大きく左右された。もっとも、どの藩も貧しく徳川幕府でさえ、財政危機の連続であった。財政の基盤は米を中心とした農業生産物であり、その年の天侯に左右されることが多く、各藩の経済はきわめて不安定であった。江戸時代を通じて、幕府以下どの大名家も、慢性的な不況にあえいでいたが、固定化された体制では、殆ど変わりようがなく、悪化した経営を建て直すことはまず不可能に近かった。

 そうした中で、上杉鷹山は、行政改革に成功し財政危機を乗り越えて経営改革を成し遂げたのである。

 鷹山は幼名を松三郎といい、直松とも呼ばれた。幼少時より頭がよいと評判の子供であったが、江戸時代の体制下にあっては、どんなに優秀であっても、次男が長男をさしおいて家を継ぐということはなかった。

 ところが、9歳の時、鷹山は祖母にあたる瑞耀院(ずいよういん)の推薦によって、出羽米沢藩十五万石上杉重定の養子に内定したのである。それは、重定の正室に男子がなかったからであった。鷹山は、重定の正室が生んだ女子、幸姫(ゆきひめ)と将来結婚することを前提に、宝暦10年、正式に上杉家の養子となった。日向高鍋藩二万七千石の部屋住(へやずみ)の身が、十五万石の大名家を継ぐ立場となったのである。まさに逆玉!であるがこれは、単に彼に幸運があったからではなく、優秀な子であったという評判があったからこそだったのである。

 ところが、鷹山はこの幸姫との間に、夫婦としての関係を生涯持ちえなかったのである。幸姫は、心身ともに発育が遅れており、10歳にも満たぬ幼女同然だった。しかし鷹山はこの幸姫を、いつくしみ続けるのである。鷹山が、幸姫を相手に、ひな飾りや玩具遊びをする姿を見て、お付きの女中たちは涙を流したといわれている。

 鷹山は養子入りにあたり、秋月家の老臣三好重道から、懇切な訓戒書を与えられた。それには、忠孝・学問・武芸をはじめ、養家の作法に絶対違犯することがないよう生涯努力し、決して恥辱を残さぬよう、詳しく述べたものであった。鷹山は生涯これを秘蔵し、その体現に努力を怠らなかった。

 1766年、数え年16歳になった鷹山は、将軍徳川家治の前で元服し、将軍の一字をもらって治憲(はるのり)と改名した。鷹山と号するのは、ずっと後に養父の重定が死去してからである。そして翌、明和4年、重定が隠退して、鷹山は上杉家の家督を継ぎ、第9代米沢藩主となった。この時少年鷹山は17歳。厳しい状況で迎えた藩主の座であった。というのも、米沢藩は未曾有といっていいほど、藩財政が極端に窮乏し、家臣も領民も貧困にあえいでいたからである。更に悪いことは重なり、何度かの大凶作が追い打ちをかけていた。

 藩主になった直後の鷹山の決意を、二つの誓詞が物語っている。一つは春日社に納めたもので、自分自身を律したもので、文学・武術を怠らぬこと、民の父母である心構えを第一にすること、質素倹約を忘れぬこと、言行がととのわなかったり賞罰に不正があったりしないようにすること等を神前に誓ったものである。もう一つは上杉家歴代が尊崇した鏡守社白子神社に奉納した、「連年国家が衰微し人々が困窮しているが、大倹によって必ず中興したい、その決意を怠るようなことがあれば神罰を蒙ってもよい」という意の誓文である。鷹山はこれらの誓詞を密かに奉納したので、領民は誰もこのことを知らなかった。誓詞が発見されて公表されたのは、春日社のものが1865年、白子神社のものは1891年になってからのことである。

 明和4年9月、鷹山は大倹執行の命令を発する。短期間に大幅な収入増が見込めぬ以上、できるだけ出費を切りつめなければならないからであった。しかし、低禄の家臣や領民の貧困をよそに、永年特権の上にあぐらをかいてきた藩上層部は、当然若き新藩主の方針に不満たらたらであった。しかし鷹山は、自らが率先して倹約することで、大倹を断行した。

 藩主の生活費のすべてである江戸における年間仕切料は、これまで千五百両であったが、これを二百九両余まで圧縮した。実に七分の一という大幅節減である。日常の食事は一汁一菜、衣服は綿衣とし、五十人もいた奥女中は九人に減らした。

 明和6年10月、鷹山は藩主となって初めて米沢に入部した。藩主初のお国入りである。このとき鷹山は、側近が止めるのもきかず、米沢のかなり手前から馬に乗り、風雪の中を雄々しく入城したといわれている。

 また、11月に行われた恒例の初入部の祝儀の宴では、大倹の際であるということで従来のご馳走料理を廃し、赤飯と酒だけで催した。その席で鷹山は、最下級の足軽格の軽輩にまで親しく言葉をかけたといわれている。

 こうした若き新藩主の旧習を破る行動は、上級家臣や老臣たちの反発を招いた。彼らは、ことあるごとに鷹山の新政策に横槍を入れることになる。家臣の須田などは、大倹令に従わず、乗馬の際には縮緬羽織を着用するというように、平然と鷹山への当て付けを行ったといわれている。 しかし一方で、新藩主の革新の気風を大いに歓迎し、旧弊を打破して新しい米沢藩をつくろうという側近も少なくなかったのである。鷹山は竹俣当綱(まさつな)や莅戸善政(のぞきよしまさ)らの改革派の強力なブレーンを得て、藩政改革を推し進めていくのである。
(続く…)
 
   郷土のやまがた 「上杉鷹山の生涯」
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津波第二波が「ドル暴落」を生み出すリスク(植草さんのブログ紹介) [経済ニュース]

  今回の100年に一度といわれる「サブプライム問題」に端を発した金融危機は、いわば津波のようなものと言えるようです。津波は、一度きりではなく、何度も押し寄せてくるのです。植草さんのブログ『知られざる真実』「津波第二波が「ドル暴落」を生み出すリスク」では、今後のアメリカ経済の先行きが非常に厳しいことを指摘されています。

 2009年度のアメリカの財政部門の赤字は1,5兆ドルに達することが予想されます。この赤字をいかにファイナンスするのか? 海外からの投資資金を流入させるか、FRBが不足する財政赤字マネーを供給するかしかないのでしょうが、この過程で、長期金利上昇圧力とドル下落圧力を受け続けることになります。

 長期金利上昇とドル下落が相互に作用しあうようようになると、ドルが暴落して、株安・債権やス・通貨安の「トリプル安」の最悪の事態におちいる可能性があるようです。

 植草さんは指摘されます。『問題の根源にある不動産価格下落は勢いを低下させていない。財政赤字の急拡大とファイナンスの困難、その際の米国長期金利上昇とドル下落圧力の試練が表面化するのはこれからである』と。

 今回の金融危機は、これからが本番かもしれないのです。それは、津波のように、第二波、第三波と襲ってくることが想定されるのだと思います。それでは、植草さんのブログから一部引用させていただきます。

(以下引用開始)

 『オバマ次期大統領は2年間で7750億ドル(約72兆円)規模の景気対策を策定しており、09年度の財政赤字は1.5-1.6兆ドル(約150兆円)に達することになる。

 問題はこの赤字をどのようにファイナンスするかだ。米国は2007年に7300億ドルの経常収支赤字を計上している。米国国内の個人、法人、政府を合算して7300億ドルの赤字を計上していることを意味する。09年度は財政部門の赤字が4500億ドルから一気に1.5兆ドルに拡大する。

 その大半を海外からの資本流入に頼らなければならないだろう。FRBが不足する財政赤字をマネーの供給でファイナンスするなら、過剰なドル供給はドルの信認を揺るがすことになる。

 二つの大きな問題が浮上する。

 第一は、政府部門の巨大な資金調達が米国の長期金利を急激に引き上げるリスクを発生させること。
 第二は、米国の巨大な財政赤字の発生がドルの先行き下落期待を急激に高めること。

 米国の10年国債利回りは昨年6月に5.3%の水準にあった。原油価格が1バレル=147ドルに達する過程で、FRBによる金利引き上げ観測が強まったためだ。

 ところが、その後、原油価格が急落し、金融危機深刻化を背景にFRBが大幅利下げに動き、同時に景気悪化が加速したため、米国10年国債利回りは2.0%にまで低下した。

 為替レートは2000年から2008年央まで、米ドルが日本円以外の主要通貨に対して暴落していたため、昨年央以降、米ドルは日本円以外の主要通貨に対して反動の上昇を示した。

 しかし、今後、米ドルの信認が低下し、米国に対する資本流入が縮小すると、米国ではドル安進行の下で長期金利上昇が発生する可能性がある。景気後退下の長期金利上昇は米国経済にさらに下方圧力を加えることになるため、米国株価はさらに下落圧力を受けることになる。

 これが「ドル暴落シナリオ」であり、米国金融市場は株安・債券安・通貨安の「トリプル安」に直面することになる。』


 『日本経済の悪化のスピードは想像を超えている。鉱工業生産指数は昨年7月の108.3から11月の94.0に急落している。12月、1月の予測指数はそれぞれ、8.0%、2.1%の低下を示している。予測指数に基づくと、本年1月の生産指数は84.7まで落ちることになる。昨年7月比21.8%の減少になる。まさに「みぞうゆう」の生産減退である。

 連動して企業収益が激減する。失業率が急上昇し、家計所得も急減する。不況は2009年に本番を迎えることになる。

 米国金融市場は、昨年9月のリーマン・ショック以来の諸懸案に対する緊急対応が出揃って、小康状態を回復している。シティグループ、GSE、ビッグスリー、AIGなどへの対応が一巡したためだ。しかし、問題の根源にある不動産価格下落は勢いを低下させていない。財政赤字の急拡大とファイナンスの困難、その際の米国長期金利上昇とドル下落圧力の試練が表面化するのはこれからである。

 グリーンスパン前FRB議長が「100年に一度のTSUNAMI」と表現したことを重く受け止める必要がある。「津波」の重要な特性のひとつは、津波が「複数回」、時には「10回以上」押し寄せることだ。

 スマトラ沖地震の際には、津波が押し寄せる前の引き潮につられて沖に向かった人々が帰らぬ人となった。「デリバティブ金融崩壊津波」を軽く見ることはできない。

 麻生政権の遅すぎる対応が日本経済の悪化を加速させている。総選挙を実施して本格政権を早期に樹立することが、最優先されるべき不況対策である。』

(引用終わり)

   植草一秀の『知られざる真実』 「津波第二波が「ドル暴落」を生み出すリスク」
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