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「幸福感は伝染する」の記事を読んで [精神世界]


 幸福感は他人に伝わりやすく、家族や友人などの社会集団の中でさざ波のように広がるが、職場では同僚の感情にあまり影響を受けない――。このような研究結果が5日、英医学誌「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(British Medical Journal、BMJ)」で発表されたそうです。

  ハーバード大学医学部のニコラス・クリスタキス教授と、カリフォルニア大学サンディエゴ校のジェームズ・フォーラー教授による共同研究によると、誰かの幸福感に変化が起きると、「幸福」または「不幸」な人々の社会的また地理的な集団が形成される。つまり、充足感は個人がそれぞれに感じるだけのものではないという。

  研究結果によると、他人の感情は、同居人よりも隣人や友人からのほうが伝染しやすく、職場では幸せな同僚がいても影響を受けない。これは、社会的状況が感情の伝染を抑止している可能性がある。

 最も重要なのは、人々が社会的ネットワークの一部であるということで、ひとりの健康や幸福感が他人に影響を与えるということを認識することだという。
(以上記事引用)

 これは、私のimaginationですが、幸福感が伝染するというのは、人間はつねに想念というか、気というか、精妙な電磁波のようなものを発信しているとすれば、肯けることではないでしょうか? その波は、静まった精神状態の人には伝わりますが、職場などの心理的抑圧の強いところでは受信できない、伝わらないのだと思います。

 また、わたしは、人間関係は、ジグソーパズルのようなものといえるのではないかと思っています。ジグソーパズルは、一個のピースがなくても完成しません。それぞれのピースが、独自の役割があり、存在意義があるのです。そして、ピース一個の形を変えれば、まわりのピースの形も変えなければ収まらなくなります。これと同じように、人間一人ひとりにも、それぞれの役割があり、貴重な存在なのだと思います。そして、ひとりの人が変われば、まわりの人間に影響を与えていくことになるのだと思います。

 そうであるとするならば、幸福感などのように、よりよい影響をまわりに与えたいものです。同じ幸福感でも、他人(ヒト)に向う、愛や感謝の心であったら、さらによい影響を与えることができるのではないでしょうか?

 人は、バラバラに分断された存在ではなく、それぞれが独自の存在意義を持った集合体なのです。お互いがわかちあいながら成長していくのが、人間本来のあるべき姿ではないか? そんなことを考えさせられた記事でありました。
 


 ヘンデルー私を泣かせてください ソプラノ歌手太田智子さん ギター伴奏田中靖二 さん
 http://jp.youtube.com/watch?v=q-H-v1EtYCY

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ダライ・ラマ14世の〝性〟についてのお言葉 [精神世界]


(以下AFPBBより引用)
 ナイジェリアを訪問中のチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世は28日、「セックスはつかの間の満足をもたらすが、後にはトラブルを招く」一方、「貞節はよりよい生活と『より多くの自由』をもたらす」との考えを示した。

 南部の都市ラゴスのホテルで記者団に対し、ダライ・ラマは、「性に関する苦悩や性欲は、短期的な満足にすぎず、しばしばより複雑な問題に発展する」と述べた。

 また、結婚生活についても「あまりに多くの浮き沈み」が伴うと指摘。「性欲を持つのは人として自然なことだが、少し知恵を働かせれば、結婚した男女が常に多くの問題を抱えているとの理解に行き着く。時には自殺や殺人さえ起きている」などと語った。
(引用終わり)

 「貞節はよりよい生活と『より多くの自由』をもたらす」とのお教えはすばらしいです。貞節は、むかしは貞操ということもいわれましたが、そういう肉体的、外面的なことにとらわれるのではなく、精神的なもの、純粋な愛による結びつきを言われているのであり、その精神性ゆえに、より多くの自由があるということではないでしょうか?

 「セックスはつかの間の満足をもたらすが、後にトラブルを招く」とのお言葉は、つかの間の肉体的欲求が先にたって結びつくと、たいがいの場合精神的不整合となってトラブルになるケースが多いのであり、精神的な愛を優先させて結びくべきだといわれているのだと思います。

 以前、フリーセックスということが言われましたが、真の自由は得られたのでしょうか? ある程度人間を解放したのでしょうが、人間は精神的な存在なのであり、精神性の中にこそ真の自由があるのだと思います。

 性的欲求が高じて、犯罪を起こす事例があとをたちませんが、ダライ・ラマ14世の『「性の快楽はつかの間」なのであり、精神性こそが、人間の求めるべきものなのだ』というお教えをかみしめる必要があるように思われます。


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世の中の混沌にも意味がある? [精神世界]

 私たちは、科学技術の進歩によって、人類の未来はバラ色になると信じていたのではないでしょうか。確かに、明るい未来を信じて勤勉に努めきたように思います。

 しかし、今の世の中は、既成の秩序がガタガタ崩れ、乱れに乱れた状況にあります。暗い事件が頻発し、将来への不安ばかりが増幅されて、暗澹たる気持ちになりがちです。世の中は、進歩どころか、退歩しているのではないかと感じてしまいます。

 でも、進歩とは、階段を上るような一本調子の上昇ばかりではなく、アップダウンを繰り返しながら、少しずつ上昇していく進歩の仕方もあるのではないでしょうか? わたしは、今の世の中はダウンの局面にあるのだと思って、将来への希望を捨てないようにしております。

 「プレアデス+ かく語りき」というだいぶ前に買っておいた本を、最近読んだのですが、希望を持たせる、おもしろい見方がありました。パンケーキができる要領と同じだというのです。いろいろな食材を調理し、混沌とした集合体にも見える加熱前のパンケーキをつくり、オーブンで焼くとできあがるわけですが、熱が触媒の役割を担っているというのです。

 これと同じように、地球上の混沌も、何らかの触媒によって、何か新しいものが生まれてくるのだというのです。混沌は産みの苦しみであり、進化の軌道からはずれているわけではないようです。気休めかもしれませんけれど?


 以下「プレアデス+ かく語りき」からの抜粋です。

 これはケーキを焼くことに例えることができるでしょう。レシピーの材料それ自体が、それぞれ完璧な全体であり、それぞれが、独自の構造意識を持っています。卵、小麦粉、バター、砂糖です。これらの材料をミックスし始めるとき、まるで大混乱を引き起こしているような状況になります。人によっては、「あなたはすべてを台無しにしているじゃありませんか。卵は壊れてしまったし、砂糖はどこに行ったんですか。重要な要素のすべてを台無しにしているじゃありませんか」 そういう人は、熱がもっている触媒の効果のマジックを理解していないのでしょう。

 現在の地球では、個々の構造がすべて崩壊し、融合して、一見すると混沌としか見えないものが創造されつつありますが、触媒のエネルギーが働いているのです。このなかから何か新しいものが生まれてくることになるでしょう。それはちょうどいくつかの材料をミックスした後に、オーブンに入れてケーキを焼くということを知らなければ、ドロドロしたバターを見て、これは一体なんだと思うかもしれません。地球に住む人のほとんどは、混沌の背後にはより高度な秩序があるということに気付かないでしょう。つまり、ある料理が作られているところで、レシピー通りに進行中だということに気付かないでしょう。

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私のつぶやき―完 [精神世界]

聖書の中から ルカによる福音書 第23章26~49

 【十字架につけられる】
 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。 イエスは、婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』という日が来る。
 そのとき、人々は山に向かっては、
 『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、
 丘に向かっては、
 『我々を覆ってくれ』と言い始める。
 『生の木』 さえこうされるのなら、『枯れた木』 はいったいどうなるのだろうか。」

 ほかにも二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔その時イエスは言われた。「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているか知らないのです。」〕 人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 兵士たちもイエスに近寄り、酸(す)いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 【イエスの死】
 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」 こう言って息を引き取られた。 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 イエスを知っていたすべての人たちと、ガラリヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。



  「私のつぶやき」
 聖書を読むと、イエス・キリストは、十字架にかけられることが定められた運命であったことが分かります。イエスは、未来を見通すことができました。避ける気があれば避けられたはずですが、自分の定めとして受け入れたのです。イエスに私心はカケラもなかったのだと思います。

 十字架にかけられたイエスの姿は、人類の原罪を背負われたのだと思いますが、私には、むしろ、人間の罪深さを象徴した姿のように思われてなりません。

 イエスは、十字架にかけられたときに言われました。「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているか知らないのです。」 「罪を憎んで人を憎まず」と言う諺がありますが、迷える者たちに対する、イエスの深い愛を感ぜずにはいられません。

 イエスと一緒に十字架にかけられた罪人のひとりが、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」とお願いすると、イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。 人間は、どんな罪人でも悔い改めれば、イエスと一緒の楽園にいることができるのです。これ以上の救われはありません。

 イエスは、十字架にかけられた状態でも楽園におられました。人間の幸せとは、外の世界ではなく、心の中にあるように思われます。社会的な問題は別にして、心の中を幸せで満たすことはできるはずです。それは、心の持ち方次第で、一瞬でできることなのだと思います。
 
  ◇  ◇

アンジェラ・アキ 手紙 ~拝啓 十五の君へ~

タグ:聖書
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私のつぶやき―⑦ [精神世界]

聖書の中から ルカによる福音書17章20~37 21章7~11 25~28

 【神の国が来る】
 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られる形で来るものではない。 『ここにある』 『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。 それから、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。 『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人の後を追いかけてもいけない。 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の人々たちから排斥されることになっている。 ノアの時にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。 ノアが箱船に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。  ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日に、同じことが起こる。 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者も帰ってはならない。 ロトの妻のことを思い出しなさい。 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。  言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。 二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起きるのですか」と言った。。イエスは言われた、「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

 【終末の徴(しるし)】
 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 イエスが言われた、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こうしたことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐにはこないからである。」  そして更に、こう言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」

 【人の子が来る】
 それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では、海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。 人々はこの世界に何が起るのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 そのとき、人の子が大いなる力と栄光とを帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 このような事が起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたの解放の時が近いからだ。」


 「私のつぶやき」
 ニ千年前の人々も神の国(地上天国)を渇望していたことに感動させられます。イエスは答えられました、「神の国は、見られる形で来るものではない。 『ここにある』 『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。

 私たちの心の中に、神の国(地上天国)は在るのではないでしょうか? そうだとすれば、神の国(地上天国)を出現させるためには、一人残らず、全ての人が外ではなく、内なる心に神の国を求め続ける必要があるのだと思います。

 その後は、imaginationの世界になりますが、「人の子が現れる」とは、イエスの再臨のことを意味しているのでしょうか? 「人の子が現れるとき」に、人類のカルマの清算が起こるようです。 その時は、人々が、食べたり飲んだり、相変わらず私服を肥やすことに一生懸命な時に、突然やってくるのです。 イエスは、「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」と言われます。 そのときがやってきた時、「無私の心境」でいなさいと、イエスは諭されているように思われます。

 聖書には予言がちりばめられています。終末は必ずあるとイエスは断言しているように見えます。天体が揺り動かされるような状態となって、人々がダメだとあきらめかけたとき、解放の時がやってくるのです。 最後の最後に救いはあるのだと思います。 もし、終末現象があるとすれば、それはいつ来るのでしょうか? 近いのか、それとも遠いのか、それは神のみぞ知るということになるのでしょうか?

 ロトについて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%88_(%E8%81%96%E6%9B%B8)
タグ:聖書
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私のつぶやき―⑥ [精神世界]

聖書の中から ルカによる福音書16章19~31

 【金持ちとラザロ】
 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 そして、金持ちは黄泉(よみ)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのそばにるラザロが、はるかかなたに見えた。 そこで大声で言った。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」 

 しかし、アブラハムは言った。「子よ、思い出してみるがよい。おまえは生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、おまえはもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこを私たちの方に越えてくることもできない。」

 金持ちは言った。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしは兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」 しかし、アブラハムは言った。「お前の兄弟たちにはモーゼという予言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」 金持ちは言った。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」 アブラハムは言った。「もし、モーゼと予言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」



 「私のつぶやき」
 これは黄泉の国の話です。 黄泉の国では、金持ちは地獄に往き、乞食ラザロは神のもとにいますので、現世とはまったく逆の立場になっています。

 若い時に、「真の存在である実在の世界は黄泉の世界であり、現世は、仮の世界である」と何かの書物で読んだ記憶があるのです。 その時は理解できませんでしたが、今は分かるような気がいたしております。 もしかしたら、黄泉の世界が本籍で、そちらのほうに圧倒的に長い期間存在しているのかもしれないのです。

 もしそうだとしたら、黄泉の国でどう過ごすか配慮しないわけにはいきません。 アブラハムは金持ちに対して、「おまえは生きている間に良いものをもらっていた」。 だから、「おまえはもだえ苦しむのだ」と言われます。 他人を犠牲にしでも、自分の利益ばかりをはかる人は黄泉の国では、苦しむことになるのでしょう。

 聖書に黄泉の国の話が出てくるとは思いませんでした。 ともかく、黄泉の国に行ってからしまったと思っても遅いですから、今からでも、黄泉の国を意識した行動をとっていく必要があるのではないでしょうか?
タグ:聖書
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私のつぶやき―⑤と植草さんのブログ紹介 [精神世界]

聖書の中から ルカによる福音書10章21~37

 【喜びあふれる】
 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」

 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者たちや王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

 【善いサマリア人】
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受けつぐことができるでしょうか。」 イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。 「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』 とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。同じようにレビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』  さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法専門家は言った。「その人を助けた人です。」 そこで、イエスは言われた。「行ってあなたも同じようにしなさい。」
 

 「私のつぶやき」
 聖書をよく読んでも理解できないところは多いですが、素直に読んで感動したところを学ぶという姿勢に徹したいと思っております。

 イエスは聖霊によって喜びにあふれて、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」と述べられています。神のおめがねにかなうのは、知恵ある者や賢い者ではなくて、幼子のような者であるようです。何か救われるような感情がわいてきて、純粋な部分を大事にしていきたいなと改めて思いました。

 後段で、イエスは、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』 という律法を実行しなさい。そうすれば永遠の命が得られる。」と述べられています。 すべてはこの言葉で尽きているように思われます。

 「あなたの神である主を愛しなさい」とは、常に見つめ、守っていてくださる自分の神を、思いを尽くして愛しなさいということですから、納得できると思います。 そして同時に、隣人を自分と同じように愛していけば、永遠の命が得られると言われます。ある葬式の礼状に、「わたしの信じる者は死なない」というイエスの言葉が載っていたのを思い出します。神の世界では、生命は永遠なもののようです。

  ◇  ◇

植草一秀さんのブログ『知られざる真実』の紹介です
 8月17日は 民主党副代表岡田克也氏に問う

 植草さんは、《民主党の岡田克也元代表が『文藝春秋2008年9月号』に「小沢さんと私は違う」と題する文章を発表した。表題小見出しには「「一度裏切った人間は二度裏切る」ことを私は学んだ」と記されている。

 民主党内で活発な論争が展開されることは望ましいことだが、総選挙を目前に控えたこの時期に、党代表批判とも受け取れる文章を一般誌に発表する岡田氏の見識が疑われる。》と述べて、この時期に、小沢一郎氏との違いを強調されることに強い疑問を呈しておられます。

 さらに、《岡田氏が「裏切り」と表現するものが具体的に何を指すのかが問題になるが、文章前段に「裏切り」についてのエピーソードが伏線のように記されている。

 「政治改革関連法案についての与野党合意が成立し、小選挙区制導入が決まった夜、美味しそうにビールを飲み干した(小沢氏の)姿、突如、新進党の解党を決めたため、「これは有権者への裏切りです」と食ってかかる私に見せた(小沢氏の)憮然とした表情など、今も脳裏に深く刻み込まれています。」(括弧内は筆者補注)

 岡田氏の文章で政治家の「裏切り」が表現される箇所はこの部分以外には1箇所しかない。小沢代表が昨年提示した自民党との大連立について、岡田氏が「有権者への裏切りに他ならない」と記述した部分である。》と岡田氏が裏切られたと感じた具体例を指摘されました。

 岡田克也氏は、小沢一郎氏をまったく信頼していないことが明らかになりました。しかし、私も小沢氏を信頼しているわけではありませんので、岡田氏の心情はよく理解できるのです。

 小沢氏は、自民党時代、訪米した時に、国益に反する言動があったように思いますし、本質的には対米従属ではないか? 新進党の時代も、独善的であり、独裁的であったように見えました。

 しかし、近頃では、昭和天皇が、靖国神社A級戦犯合祀に反対であったことを記したメモが発見された時、これは、「大御心だ」と言われたり、民のかまどに煙が立つようにしなければと言ったりしています。前回の党首選の演説では、「自ら変わらねば」と言っていました。結構自民党の政治家よりましなことも言っているわけです。

 ですから、まわりで国民の方に目を向けさせるように、裏切らないように小沢氏を仕向けていけばよいのではないでしょうか?

 岡田氏にしても、イオングループオーナー一族、通産官僚の出身です。第二自民党を目指しているのではないかという疑念は消えません。

 いずれにいたしましても、疑念を指摘しあうよりは、いまは大きな視点に立って、政権交代を目指さなければならないのです。小沢一郎氏に対する疑念は、政権交代した後の行動で判断すべきだと思います。今この時点で、小沢氏への疑念を持ち出すことは、自公政権を利するだけになってしまうかもしれないないのですから。


   植草一秀さんのブログ『知られざる真実』 民主党副代表岡田克也氏に問う
タグ:聖書
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私のつぶやき―④と植草さんのブログ紹介 [精神世界]

聖書の中から、ルカによる福音書7章36~50

 【罪深い女を赦す】
 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をして欲しいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。 イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向って、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。

 イエスはお話になった。。「ある金持ちから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多く金貸しを愛するだろうか。」 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えた。

 イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして女のほうを振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、私の足に接吻をしてやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。  だから、いっておく。この人が多くの罪を許されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 

 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何ものだろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。


 「私のつぶやき」
 『この人が多くの罪を許されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。』
 この言葉は、親鸞聖人の「悪人正機説」を思い起こさせます。 親鸞聖人は、「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや」と言われました。 やくざとか道をはずしてしまった人のなかにも、つねに罪の意識を感じている人はいるのではないでしょうか? そうした人が改心すれば、赦されることのすくない人よりも大きな愛を示すことができるのだと思います。悪の道でひとかどになった人などは、ひとたび回向すれば、立派な人になれるかもしれないのです。

 人間は、己を罪深い者と認めて、謙虚に悔い改めることが大切なのではないでしょうか。 そのうえで、神仏に感謝していけば、救いがあるのだと思います。

         ◇          ◇

 植草一秀さんのブログ『知られざる真実』の紹介です
   8月12日は、「1600年体制」からの脱却

 植草さんは、『「天下り」を受け入れる独立行政法人、公益法人などに国家の財政資金が年間12.6兆円も注ぎ込まれている。「天下り」官僚の報酬、諸経費、退職金に膨大な国費が投入されている。』 と指摘され、官僚の天下りの不当性を詳細に解説されています。12.6兆円という途方もない額に驚かされますが、官僚の天下りを改革することこそが「真の構造改革」であることがよく分かります。

 また、『官僚機構という公権力が圧倒的な実権を握り、国民がその被支配者であるという構造。国民の側にある自ら従属しようという民としての意識。これらが定着したのは、おそらく江戸時代である。現代の日本の権力構造、そしてその権力構造を支えている精神構造は江戸時代にしっかり定着したものであり、そうした意味で現在の体制は1600年体制と呼んでもよい。』 と述べられていますが、江戸時代から続く精神構造を改革することでもあるわけです。民が主人であり、官僚は民のために尽くす存在に改革せねばなりません。

 今の自公政権は、官僚と持ちつ持たれつの関係になっており、天下り根絶などできるはずがありません。 天下り根絶するには、政権交代しかないのであります。


   植草一秀の『知られざる真実』 1600年体制」からの脱却

タグ:聖書
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私のつぶやき―③ [精神世界]

聖書の中から、マタイのよる福音書6章25~34

 【思い悩むな】
 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値のあるものではないか。

 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。 野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡(つむ)ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 

 だから、『何を食べようか』 『何を飲もうか』 『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。


 「私のつぶやき」
 イエス・キリストは、神を信じる者はすべてが与えられる、生活のことで思い悩むのは信仰が薄いからであると言われます。
 『神の国、神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな』 と言われても、先に与えてくれれば、神を信じてもいいよというのが大半の人の心情であると思います。無条件で神を信じろといわれても難しいですよね。

 人間の心臓は動き続けるのが当たり前と普通思われています。ですが最近、人間の心臓が動き続けられるのはどうしてだろう? 自律神経とはなんだろう? と改めて考えることがあります。 考えても私には分かりませんので、これは神からのエネルギーが供給されているので動き続けられるのであると解釈することにしました。

 そうすると、人間は初めから、神から与え続けれている存在であるということになります。 神からのエネルギーの供給がなければ生きられないとなれば、自然と神に感謝できるようになるのではないでしょうか? 神に感謝していれば、加えて与えてくださることもあるのだと思います。

 ますます先行き不安な世の中になっていますが、明日のことは思い悩まず、今日の苦労を精一杯味わっていくことにしたいと思います。
タグ:聖書
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私のつぶやき―② [精神世界]

聖書の中から、ルカの福音書6章37、38、41,42

 【人を裁くな】
 人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦(ゆる)しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量(はか)りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤(はかり)で量り返されるからである。

 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、何故自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太をみないで、兄弟に向かって、「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と、どうして言えるのだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。


 「私のつぶやき」
 人は、憎しみ、怒りの感情などが湧き上がるとどうしても他人を批難してしまいます。相手も批難されれば、いい感情は持ちませんから、人間関係がうまくいかなくなってしまいます。イエス・キリストは、「人を裁くな。赦しなさい。与えなさい。」と言われました。これが人としての真実のこころの在り方であるとお示しになられたのです。人間関係を良くするためには、人を裁かないことが究極の方法なのだと思います。

 「いっさい人を裁かない。人を赦す。」を前提にして生活していくことは難しいことではありますが、高い山を登る登山家のように頂上を目指して、あきらめずに一歩一歩前進していけたらと思っています。

 後段で「何故自分の目の中の丸太に気づかないのか」言われておりますが、自分の目の中の丸太とは、心の歪みの象徴ではないでしょうか。心が歪んでいるかぎり見えないのだと思います。それに反して、他人の歪みはよく見えるので、つい批判して、気づかないうちに偽善者になってしまっているのです。

 美輪明宏さんが、スポーツニッポンに「明るい明日を」をというコラムを毎週日曜日に寄せています。27日は、「今の東京に五輪は不要」と題して石原都知事のことを書いているのですが、一部引用させていただきます。

 『…石原都知事は愚かです。皇太子さまに五輪招致の協力を要請し利用しようとして宮内庁に難色を示されると、宮内庁を「木っ端役人」呼ばわりしました。これにはあきれ返りました。知事というのは都民の税金で食べさせてもらっている役人ではないのでしょうか。知事も公僕、都民のしもべのはずです。それなのに自分はお偉い独裁者にでもなった気でいるのでしょうか。役人が同じ役人を「木っ端役人」呼ばわりするのは天につばをする行為です。石原知事は吐いたつばが同じ木っ端役人の自分に降りかかっているのが分からない差別主義の愚か者なのです。…』

 美輪さんの言われていることは、正論であると思います。石原知事は、自分の目の中の丸太がまるっきり見えていないのです。自分は正しいと思い込んでいる、偽善者の典型といったら言いすぎになるでしょうか。
タグ:聖書
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